こんにちは!からふるです^-^
残暑厳しいなあ、なんて思っていたら急に涼しくなりましたね。
秋冬の洋服を慌てて引っ張り出しました..。

さて最初のタイトルにある通り、最近こちらの本を読みました

突然ですが、みなさん改めて聞きます。
「本、好きですか?」

私は、好きです!

なので、こちらの本のタイトルを見たときに気になりました。
著者の三宅香帆さんも、本が好きな方ですが働くようになってから「本を読めてない」。

冒頭のほうの文章で三宅さんはこう綴っています。

心当たりがありすぎて「私のことじゃないか」と心の中で呟きました。だけど、そう感じたのは私だけではないようで、三宅さんはこの経験をネットで綴った時、「自分もそうだった」と多くの声が寄せられたそうです。そして改めて考えたそうです。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか?

本書は、日本の近代以降の労働史と読書史を並べて俯瞰することによって、「歴史上、日本人はどうやって働きながら本を読んできたのか?そしてなぜ現代の私たちは、働きながら本を読むことに困難を感じているのか?」という問いについて考えた本です。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか 三宅香帆

私は本を読むことが好きですが「読書」の歴史は意識したことがなかったので、まずそこが面白そうだなと思いました。そして読み進めていくにつれ、その時代風景によって流行った本や読書への目的意識の違いがとても興味深かったです!

特に私が印象的だったのは「円本」。

円本とは?

簡単に説明すると「名作作品集」です。
この円本が生まれた背景を、三宅さんは次のように書いています。

1923年(大正12年)、関東大震災が日本を襲った。
それは出版業界にも、当時広がりつつあった民衆の読書文化にも、大打撃を与えた。火災によって書籍も、書籍になる前の紙も、たくさん燃えた。書籍の値段も上がる。これ以上単価が高くなってしまっては、せっかく本を読もうとしていた民衆が、本に手を出せなくなる。

大正末期ー出版界はどん底にあった。
そんな出版界に革命を起こしたのが、「円本」だった。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか 三宅香帆

そしてこの円本がブームとなり、日本の読書を変えたそうだが...先ほども説明しましたが円本とは「作品集」のことです。つまり色々な作品がセットになっているわけですね。
だから「この本だけ買いたい」ということができないし「予約をしなければだめ」というなかなかとんでもない買い物だなあという印象でした。

しかし、言い換えればまとめ買いのこのシステム。当時、1冊当たりのお値段が相当安かったということも人気の理由だが、私が驚いたのはもう1つの理由でした。

書斎に置くインテリアとしてもいい

確かに装丁に惹かれて本を購入することはありますが「インテリアとしていい」という理由では買わないかなあ..と思いました。なぜこの購入理由がでてきたのか?気になって読んでいくと、三宅さんはこう解説されています。

昭和初期、本を読んでいることは、教育を受け学歴がある、すなわち社会的階層が高いことの象徴だった。中高等教育を受けた学歴エリート階層=新中間層が、労働者階級との差異化のために「教育としての読書」を重視していたことは、第二章に見た大正時代から続く傾向である。そう、ずらりと本棚に並べられる円本全集を購入することは「実際に読まなくても読書している格好」をするための最適な手段だったのだろう。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか 三宅香帆

ま、まさかの見栄...!自分はこんなに本を読んでいるすごいやつなんだぜ!そのアピールのために恐らくなかなかなぶ厚さの(想像だけど)本セットを買った人も当時わんさかいたのだなと思ったらちょっと「ふふっ♪」とほほえましい気持ちになりました^-^

さて、その教育一貫!が目的となっていた読書も時代が変わり、「娯楽」として本を読むことを楽しむ姿もでてきました。サラリーマンの日常をテーマにしたエンタメ小説が流行した50年代を経て、再び読書危機が訪れます。

仕事に追われるサラリーマン

昭和のサラリーマンは高度経済成長期を迎え、週休二日制制度も整っておらず有給休暇なんてものもなかったであろう時代。そんなサラリーマンに次に人気となったのがビジネス向けのハウツー本でした。
ここでまた面白いと思ったのが同じサラリーマンでもやはり時代背景によって変わってくる「求められる本のニーズ」。

70年代では、会社における自分の昇進のための勉強のための本が売れ、80年代では教養ではない、コミュニケーション力を求め、そのための本が売れました。

70年代にはまだ、進学できなかったことによる学歴コンプレックスから教養を求める労働者が多数存在した。だが80年代になり、進学率が高くなるにしたがって、学歴よりも、コミュニケーション能力を求める労働者のほうが多くなった。
(省略)70年代までは、教養ーの延長線上にある「学歴」こそが労働の市場に入り込む必須条件であり、それを手にしていないことへのコンプレックスも大きかった。
しかし80年代になると、学歴ではなく、「コミュニケーション能力」を手にしていないコンプレックスのほうがずっと強くなったのだ。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか 三宅香帆


ここまで駆け足で本当に一部ではあるけれど、私が「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読んで特に印象的だった「読書の歴史」に触れさせていただきました。その時代ごとの目的の違いはあれど、本はずっとそこにあったのだな。そんな印象を受けました。ではなぜいま「読書離れ」が起こってしまうのでしょうか

私は最初、タイトルからして「時間を拘束、またその労働による疲れで本が読めなくなるのかな」と想像していました。

だけど三宅さんは予想外の切り口からこの問題について向き合い、考えて、このように述べていました。

就職活動や転職活動、あるいは不安定な雇用のなかで成果をだすこと。どんどん周囲の人間が変わっていくなかで人間関係を円滑に保つこと。それらすべてが、経済の波に乗り市場に適合することー現代の労働に求められる姿勢である。
適合するためには、どうすればいいか。適合に必要のない、ノイズをなくすことである。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか 三宅香帆

これはどういうことなのか?そんな私の疑問に答えるように三宅さんはこう語っています。

1990年代以前の<政治の時代>あるいは<内面の時代>においては、読書はむしろ「知らなかったことを知ることができる」ツールであった。そこにあるのは、コントロールの欲望ではなく、社会参加あるいは自己探索の欲望であった。社会のことを知ることで、社会を変えることができる。自分のことを知ることで、自分を変えることができる。しかし90年代以降の<経済の時代>あるいは<行動の時代>においては、社会のことを知っても、自分には関係がない。それよりも自分自身でコントロールできるものに注力したほうがいい。そこにあるのは、市場適合あるいは自己管理の欲望なのだ。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか 三宅香帆

なるほど。つまり「知りたいことだけ」をピンポイントに「知りたい」人が多いいまの時代、自分が「知りたい」情報以外もある読書を敬遠してしまうということですね。

自分が必要なところだけ。それ以外の情報は求めない。それだけ余裕がない働き方をしているということかなと思いました。

三宅さんは「働いていても本が読める」社会をこんな風に提案しています。

全身ではなく「半身」に変えることができたら、どうだろうか。(省略)長時間労働に疲れているとき、あるいは家庭にどっぷり身体が浸かりきっているとき、新しい「文脈という名のノイズ」を私たちは身体に受け入れられない。(省略)疲れたときは、休もう。そして体と心がしっくりくるまで、回復させよう。(省略)そんな余裕が持てるような「半身で働く」ことが当たり前の社会に、なってほしい。
何度も言うが、それこそが「働いていても本が読める」社会だからだ。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか 三宅香帆

私はこの本を読んで三宅さんは「余白の大事さ」を伝えてくれたように思えました。現代が確かに「まだできる」「みんなそうだから」とつい頑張ってしまう人が多い社会であるかもしれない..かくいう私もどちらかというと、心のケアを後回しししがちで、どんどん追い込んで視野が狭くなってしまうときがあります。

自分の好きなことってなんだっけ。あー。これ好きだったな。それは危険信号だなと感じました。

疲れた。それだけで埋められた日常。カチカチに乾いて固くなった心をほぐすように「ちょっとだけ」ぼおっとする時間を意識して、「ちょっとずつ」自分の好きな時間を楽しむ。

そんな「余白」を常に持てるように過ごしていきたい。そう改めて「自分」を「大切」にすることを学んだ1冊でした。予想外の着地でした。

最近、読書していないな。趣味を楽しめてないな。そんなかた、ぜひ読んでみてくださいね♪

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

読書はプラスになることだらけ!

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